二章~奏禍 ~
近づくほど歌声が膨れ上がっていく。
もはや合唱という域はとうにこえ、災害そのものだった。
音の振動が地を震わせ、響き渡る。
文化会館はすでに全体が黒い靄に包まれていた。
重い扉を押し開けた瞬間、冷たい空気が身体に絡みつく。
照明は点いているはずなのに、光が鈍く、色が抜け落ちたようになっている。
黒い靄は廊下にまで侵食し、床を這って外の方へと流れ出してきていた。
「行くよ、羽海」
不安そうに小さく頷いた彼女とともに階段を一段ずつ踏みしめて進む。
一段ごとに耳の奥を圧迫するような重苦しさが増していく。
それはこの大き過ぎる歌声のせいではない。
心臓を直接握られるような生々しい圧迫感。
陌霊の濃厚な気配は、ホールの方から溢れ出していた。
ホール前の両扉を開け放つ。
そこに広がっていたのは想像をゆうに超えた異様な光景だった。
独りでに音を奏でているグランドピアノ。
艶の残る四本の脚はそのままに、鍵盤が自分勝手に動き回り、それに合わせ剥き出しの弦がのたうち回っている。
ステージには合唱団の高校生たちが並び、宙に浮く楽譜を正面に据え、目が虚ろなまま歌い続けている。
その中央に鎮座していたのは、黒い靄をまとった怪物。
ピアノの弦のような尾が広がり、ムキ出しの歯が鍵盤のようになっている。
完全に実体化を果たした陌霊の姿だった。
「羽海! あれの相手は任せて、そのうちにあの子たちを逃がして!」
「え、でもどうしたら……?」
「さっきやったみたいに掌に力を込めて触れてあげれば正気に戻るから! そしたらホールの外へ連れて行って!」
「うん……わかった」
羽海がそう言ってステージの方へ向かうのと同時に、私は陌霊に向かって駆け出した。
怪物は私たちに気がついたようで、牙を剥き、全身を震わせる。
瞬間、ピアノから割れたような音が響き渡った。
爪で金属を裂くような高音と、地鳴りのような低音が響く。
それらの音が不協和音を生み、ホール全体を揺さぶった。
「よっ!」
力を込めた御札をぶつけ、音を相殺する。
音とはいっても、陌霊が生み出す現象でしかない。
そのまま祝詞の詠唱を始める。
天地どう――
「ツッ」
祝詞を紡ごうとした時、焼けるような痛みが耳をつんざき、視界が歪む。
相殺しきれなかった〝音〟が耳を貫いたようだった。
「朱璃ッ!」
羽海の叫びが聞こえる。
鼓膜がやられたわけでないようだ。
その声に陌霊が反応し、羽海に向かって一直線に跳躍した。
「――っ!」
私は迷わず割って入り、弦の尾を腕で受け止める。
衝撃が骨にまで響いたが、なんとか堪える。
「ぐっ……!」
天地――
再び祝詞を紡ぐ。
陌霊は私を無視して、羽海へと飛びかかる。
執拗に羽海を狙うことを決めたようだった。
「ほんっとしつこい……!」
私は反射的に駆け、羽海を突き飛ばす。
彼女は倒れ込みながらも最後の1人に手を触れる。
直後合唱が止み、ピアノが奏でる伴奏だけが残った。
だが次の瞬間。
陌霊の牙が私の脇腹を抉った。
肺から空気が押し出され、視界が白く瞬く。
「朱璃!」
羽海の声が響く。
痛みの奥で、久しぶりに血が騒ぐのを感じていた。
「強いねぇ……さすが準一級」
笑みを堪えきれないまま、構えをとる。
いきなり祝詞を唱えても邪魔されてうまくいかない。
陌霊が私の構えを睨みつけるように唸り、四肢を床に叩きつける。
木板が軋み、細かな破片が宙に舞った。
私はそれらを避けながら間合いを詰め、甲羅状の背中に掌底を叩き込む。
強い衝撃が響き、陌霊の動きが鈍った。
私は痛みに耐えながら尾を掴み取り、そのまま陌霊の動きをなんとか抑える。
「羽海、お願い! 早く行って!」
「うん! ありがと……」
「あ、あとこれ! 持っていって」
陌霊の尾が私の手を振りほどき、後ろに飛び退く。助走をつけているようだった。
このまま抑えられるかもしれないが、その影響で外がどうなるかわからない。
ストックしていた御札を羽海に押し付ける。
「干渉範囲から出たら、コレに力こめて!」
私の意図に気づいたらしい。
躊躇いながらも札を受け取った。
「分かった。朱璃、無理しないで……」
私は答えず、親指をグッと立てた。
羽海と高校生たちがホールを出るのを見送る。
陌霊がそれを追おうと駆け出すが、私は扉の前に立ちふさがり、再び構えをとる。
「あまり陌霊とデートはしたくないんだけどなぁ……」
足を振り上げ、そのまま陌霊を蹴り飛ばす。
勝ちきれないまでも、抑えきれないことはなさそう。
距離ができたし、護るものもない。これなら……。
天地同根 万物同体
我が清浄を似て
九十九の汚穢を打祓わん
左目に熱が帯びるのを感じる。
陌霊は再び体勢を整え、弦の尾と鍵盤の牙をかき鳴らしていく。
周囲には楽譜が飛び回っている。
「……本気ってわけ?」
陌霊は応えるように唸る。楽譜が歌うように周囲を飛び回る。
「ようし、それじゃあ、いっくよー!」
全身の力を込め、陌霊へ飛びかかった。

