三章~譜響~
「やるね……」
口元を伝う血を拭う。
羽海はうまくやってくれたようだった。
陌霊の干渉が抑えられえているのがわかる。
これであとは、店長と羽海が応援を連れてくるまで、こいつらを抑えていればいい。
さっきの封印は弾かれてしまった。
だが、おかげで分かったこともある。
結界が解けかかっている陌霊と向き合い、睨み合う。
飛び交う楽譜を避けながら、様子を探る。
「うーん、どうにもこうにも、手立てがないな~。耐え切るしかないか……」
そうこうしているうちに、陌霊のまとっている黒い靄がまた溢れ出してきていた。
攻撃で動きが鈍ったところに、祝詞と御札を交互にかけていく。
ジリ貧だがコレを繰り返していけば抑えきれるはず。
次の瞬間、陌霊の拘束が弾け、飛びかかってきた。
鋭い鍵盤のような牙と弦の尾、さらにペダルのような爪が生えている。
私は再び陌霊を封印するために、御札を構えた。
「あっ……」
懐に御札のストックがないことに気づく。
そうだ、羽海に渡した分を計算に入れていなかった。
これでラスト。もしそうなったら……。
「朱璃!!!」
思いがけず、私を呼ぶ声が響いた。
声のする方を振り返るとそこには羽海の姿があった。
「え、羽海……?」
一瞬の隙を見逃さないとばかりに、向かってきた陌霊に御札を突きつける。
両界絶障
――牛頭!
祝詞と共に、強引に抑え込む。
陌霊の力がさっきよりも強くなっていることを感じる。
これで御札もなくなってしまった。
長くは抑えつけておけないかもしれない。
「羽海、なんで戻ってきたの!?」
「私も……唄の巫女、だから」
羽海が、陌霊の前に一歩踏み出す。
迷いを含んだ瞳に、確かな光が宿っていた。
その表情に私は笑みが零れそうになる。
が、それどころじゃない。
「羽海! ちょっと待って!」
羽海が来てくれたならやりようがある。
彼女はおそらく、このまま封印か浄化を行おうとするだろう。
それではだめだった。
「羽海ならやれるよきっと」
「え、どういうこと?」
事情を飲み込めていない羽海の様子に、私は何も伝えていないことに気がついた。
「あ、ごめんごめん」
陌霊を抑えている御札に力を込める。
まだ抑えていられそうだ。
「えっと、さっき気づいたんだけどね、あそこに飛んでる楽譜あるじゃん?」
陌霊の周囲を飛び回る楽譜を指差す。
それは陌霊と違い、動きが鈍くなった様子もなかった。
陌霊特有の黒い靄も発生していない。
「え? あれって……」
羽海もどうやら気づいたようだった。
「そう、私もさっき気づいたんだけど、付喪神みたいなんだよね」
「なんでそんなことに……」
「たぶんずっと一緒にいて、片方だけ陌霊化しちゃったんだと思う」
「なるほどね……」
羽海が深刻な表情で楽譜を見上げる。
「でも……なんであそこまで動いてるの?」
「うん、私も不思議だったんだけど、たぶん近くにいた陌霊の影響でそうなったんだと思う。なんで一緒に陌霊化していないか、不思議なくらい。ん……!」
そろそろ陌霊を抑えておくのも限界がきそうだった。
そうなったらもう戦って抑えるしかない。
「そういうことね……」
「しかもあれ……陌霊を封印しようとすると、なぜか邪魔してくるんだよね」
封印するためには声を聞く必要がある。そのために時間が必要だった。
「だから、私が陌霊を抑えている間に、付喪神の声を聞いてほしい」
「え、でも……」
「大丈夫、羽海なら出来るよ。それに……」
さっき一瞬だけ聞けたグランドピアノの想い。
あれが確かなら……羽海のほうが適任だ。
ジっと羽海の瞳を見つめる。
彼女の瞳には不安の中に確かな決心を感じた。
「分かった……!」
「それじゃ、お願いね」
陌霊が動き出す。
私は相対する陌霊に握りしめた右手を突き出した。
「ごめんだけど、もうちょっとだけ、私に付き合ってね」
羽海は陌霊の周囲を飛び回る楽譜を見据える。
特段、動きが早いわけではない。
陌霊の動きに合わせて動いている。
朱璃が陌霊を抑えると、そのすぐ側につく。
羽海はその隙に楽譜に手をかざした。
「あなたの、声を、聞かせて―」
彼女は目を閉じて、流れ込んでくる楽譜の想いに耳を澄ます。
少年は、少女は、毎日、歌っていた。
学校の音楽室。
公園で行われる、地域の演奏会に向けての練習だった。
楽譜に向かう子どもたちは、好き勝手に歌っている。
ピアノの伴奏に耳を傾けて、
体でリズムを取って、
楽譜に書かれた歌詞を一生懸命歌っていた。
音もリズムも揃っていない。
ただみんな楽しそうに歌っていた。
場所が変わる。
地域の演奏会。
子どもたちが集まり、歌っている。
大きな声で、元気よく、楽しそうに。
先生の指揮に合わせて。
ピアノの伴奏に合わせて。
みんなが一生懸命歌っていた。
それを見守る家族たち。
朗らかにみんな笑っている。
みんな一緒に歌っている。
この場所で奏でられた合唱会が、演奏会が流れていく。
歌っている人たち。
聴いている人たち。
演奏している人たち。
みんながみんな笑っていた。
上手いも下手もない。
悲しいことも、苦しいこともない。
ただ今、幸せであることを、楽しいということを歌っていた。
楽譜はそれを刻んでいた。
楽譜の数だけ奏でられた演奏が、合唱がそこにはあった。
ずっと一緒に歌っていたかった――
羽海に流れ込んだ記憶。
一緒に歌いたい。
だから、それなら……と、羽海は楽譜に手を伸ばし、抱きしめる。
「大丈夫だから、安心して、ね」

