二章~墨哭~
年代物のシャッターを開ける。
薄暗い倉庫に光が差し込み、くすんだグレーのバイクが姿を現した。
GB350S。だいぶ年季の入った私の相棒だ。
ヘルメットを取って羽海に渡す。
「これ被って」
羽海は黙って受け取ると、後部シートに跨った。
キーを差し込み、エンジンをかける。
「いこう」
「うん」
私はスロットルに手をかけて、初夏の松本の街を走り出した。
夏の風が頬を撫で、建物が視界の端から後ろへと吸い込まれていく。
その景色に、ふと昔の事を思い出す。
柚木の家は仮想空間と現実空間が混ざり合ったような、暮らしの中にもう一つの層があるような、そんな摩訶不思議な家だった。
家の中を案内され最初は楽しかったんだけど、柚木と柚木の両親から現代建築のうんちくを聞かされ続けるという地獄の時間が始まって――
そんな時、あの家の唯一の癒しが琴乃だった。あーちゃんあそぼーって擦り寄ってくる時の顔はまさに天使だったなぁ。
「それで? 琴乃ちゃん、どんな感じだったの?」
「あ、そっか。えーっと――」
琴乃からの電話の内容を羽海に伝えた。
「ざっとこんな感じ。琴乃ちゃん、かなり変だった」
「……」
腰を掴む羽海の手に力が入るのが分かった。
「そう……その、悠馬君って誰なの?」
「悠馬君は琴乃ちゃんの幼馴染だよ。家が近所で、同い年で、仲が良かったみたい」
「悠馬君と何かあったのかな……」
「どうだろうね……私も今の二人の事は、良く知らないんだ」
悠馬自身の事は、小さい頃の琴乃からよく聞いていた。
「昨日公園で近所の男の子にいじわるされたの。すっごく悲しくて泣いてたら、ゆーまくんが助けてくれたの。すっごくかっこよかった」
そんな風に、笑顔で悠馬の話をする琴乃が印象的だった。
あの頃から琴乃は悠馬のことが好きだったんだろう……。
「羽海は、誰かを好きになったことある?」
「ふぇ? な、ななな、なにを急に!?」
そんなに驚かせるような質問でもないと思うけど……。
羽海はずいぶん驚いたようで声が裏返っている。
「いやさ、琴乃ちゃん、悠馬君のこと好きだったのかなーって」
「え? あ、あぁ、そういう……」
「で、どうなの?」
「あ、朱璃はどうなのよ?」
「私? うーん、正直、良く分からないかな~」
そういう風に誰かを好きになるって、どんな感じなんだろう。
「けど、羽海の事は好きだよ」
「……っ!」
次の瞬間、背中を叩かれた。
「ちょ、危ないって!」
「……言い方」
「え、なんで? 相棒としてって意味で――」
「わかってるわよ!」
羽海の手がさっきよりも強めに腰に回る。
そのまま、会話は途切れた。
「羽海、そろそろ着くよ」
信号を抜けて、家の近くで速度を落とす。
門の前にバイクを寄せて止めた。
ヘルメットを外すと、紫陽花の香りが鼻をかすめる。
家の前でインターホンのボタンを押すと、しばらくして、琴乃が顔を出した。
「いらっしゃい、朱璃ちゃん……と、あれ? 羽海ちゃんも? どうしたの?」
目を腫らした琴乃が、羽海を見て驚いた顔を浮かべた。
「急に来てごめんね」
「ううん……やっぱりずるいね、朱璃ちゃんは」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
「羽海ちゃんも、来てくれてありがと」
「いきなり来てごめんなさい。私もその、心配で……」
「どうぞ。中、入って」
琴乃はスリッパを人数分取り出して、私たちの前に並べた。
「外、暑かったでしょ? 春って一瞬ですぎちゃうよね。……春、好きなんだけどなぁ」
そう言って、琴乃は小さく笑った。
出されたスリッパに足を通し、家の中に入る。
柚木の家は、あの頃のままだった。
壁一面に、斑の模様が浮かんでいて、時折動いたり、消えたりしている。
琴乃は私の視線に気付いて、肩をすくめた。
「ごめんね。うち、相変わらずこういう感じで……落ち着かないよね」
「ううん。なんか懐かしいなって思って」
「部屋、案内するね。朱璃ちゃんも私の部屋には入ったことなかったよね?」
「確かに。いつもリビングか、柚木の部屋だったね」
柚木の家に来ると、だいたいはリビングで雑学を聞かされるか、柚木の部屋でゲームするかだった。
ゲームではたいてい全員が柚木にボコボコにされているから、いい想い出はあまりない。
「じゃあこっち」
小さい背中が、先を歩く。
そのままリビングを抜けて階段を上がる。
その先にある柚木の部屋の向かいが、琴乃の部屋だった。
「どうぞー、いらっしゃい~」
中は拍子抜けするほどシンプルだった。
勉強机とベッド。それに小さな棚が一つ。
ARで壁に浮かぶ模様も、柚木の部屋みたいにやたらデバイスがあるわけでもない。
けど、そのセンスは柚木家の人間であることを物語っていた。
「冷たいの、飲む? お茶か水か、あとはなんか……変なジュースかな」
「お水でいいよ。ありがとう」
「わ、私も、お水で」
羽海が少し間を置いてそう答えた。
「変なジュースって、柚木のでしょ?」
「そう。なんか脳が活性化するどうたらとか言ってた。じゃあ取ってくるからちょっと待ってて」
琴乃がいつもの調子で笑い、リビングに向かって踵を返していった。
私がベッドを背にして腰を下ろすと、羽海も隣に座った。
改めて部屋を見回す。
どこかひんやりとした空気が漂っている。
しばらくして、琴乃がトレイを抱えて戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「ありがとう、琴乃ちゃん」
コップを受け取った瞬間、琴乃の指がほんの少し震えているのが分かった。
「それにしても、二人共、来るのが本当に早かったね。瞬間移動した?」
「バイクだよバイク。愛車のGBちゃん」
「うわ、かっこいい! 私にも――」
言葉が止まる。
琴乃は、急に電池が切れたかのように動かなくなった。

