咲の家は松本市並柳の団地にあった。
「えーと、413号室……」
「こっちだよ、私についてきて!」
「う、うん。わかった」
団地特有の同じような外観の部屋がずらりと並ぶ。
それでも迷うことはない。
何度も来たからかはっきりと覚えていた。咲の家のあるフロアについたその時だった。
「つつ……」
咲の家のあたりから、弾き飛ばされる青年の姿が目に入ってきた。
廊下の壁に激しく叩きつけられ、鈍い音が響く。
「優希くん!?」
私たちは駆け足で彼のもとへ向かった。
優希くんは痛みに顔をしかめながら、ゆっくりと立ち上がる。
衣服のあちこちが焦げ、肌には焼けたような痕が残っていた。
「つつ……あ、朱璃さん。それと……」
「あ、こっちは羽海。えっと――」
「祈祷師の白砥羽海といいます。よろしくお願いします」
「あなたが……。優希です。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げた優希くんの表情は、疲れ切っているようだった。
「なんでここにいるの?」
電話では〝危険だから離れておくように〟と伝えていたはず。
「すみません……でも、どうしても心配で……」
「まぁ、そうだよね。でも大丈夫。私たちが、絶対になんとかするから」
そう言うと、羽海が私の肘を軽くつつく。
「あっ……なんとかしてくれるはず!」
「……はい。絶対なんとかします。安心してください」
「……よろしくお願いします」
私は焦げた衣服を指さして言った。
「優希くん、それ……」
「あ、気をつけてください。玄関に入ろうとするとこうなるんです」
羽海と顔を見合わせる。
陌霊が人に影響を及ぼすほどの攻撃性を持っている――
となると、状況は思っていたよりも深刻だ。
「わかりました。少し離れててください」
「はい……」
優希くんは羽海の指示に従い、玄関から数歩下がって廊下の方へ移動した。
団地の作りもあって、そこからは玄関の中が直接見えない。
私たちが何をしているかも、きっと見えないはずだ。
私と羽海は改めて玄関へと向き直った。
ドアは開け放たれ、部屋の中は明らかに影が濃い。
その境目が、はっきりと見て取れる。
陌霊の影響下にあるのは間違いない。
中では何にも気づかず、母親と談笑する咲の姿。
二人とも無事なようだが、どんな影響を受けているのかはわからない。
「朱璃……」
心配そうにこちらを見る羽海に、私は親指を立てて応えた。
玄関先。境界線に手を伸ばす。
優希くんの話では、触れた瞬間に弾かれ、焼けるような衝撃を受けるという。
――手を触れた瞬間、壁のような感触。
祈祷師の結界にも似た波動。だが、陌霊特有の歪みが混じっている。
それでも、弾かれることはなかった。
「あれ……?」
顔を見合わせる。
羽海も恐る恐る触れたが、やはり何も起きない。
「これって……」
拳を作って軽く叩いてみる。
「いった……」
「なにしてんのよ……」
右手を振る私に、呆れたようなため息をつく羽海。
しかし、弾き返される気配はない。
代わりに、〝こちら側〟を拒む力だけが、じりじりと圧を放っていた。
「あの……大丈夫ですか?」
優希くんの声がした瞬間――
手のひらに伝わる波動が一気に濃くなった。
陌霊が反応している。
「優希くん! ごめん、下がって!」
「え、あ、はい!」
優希くんが慌てて廊下へ下がると、気配が再び薄れていく。
――やっぱり。
彼を認識したときだけ、陌霊が活性化する。
羽海を見ると、彼女も同じ結論に辿り着いたようで小さく頷いた。
この壁を破って、〝あれ〟を弾き飛ばす。
それで、封印できる。
私は深く息を吸い、静かに目を閉じた。
天地同根、万物同体。
祝詞を唱える。
身体の奥に水の流れるような感覚。
視界が澄み渡り、目の奥はジワリと熱くなる。
朱い光が視界に滲み、右手に力が集まっていく。
「せーのっ、どん!」
掛け声とともに拳を振り抜いた。
バリンと鋭い音を立て、結界が砕け散る。
「さすが朱璃……」
「よっしゃ!」
羽海が少し引いた顔をしていたが、気にしない。
そのまま部屋へ突っ込む。
咲と母親は、何も気づかずに談笑を続けていた。
その中央。リビングの空中に浮かぶ〝髪飾り〟。
「やっぱり、あれだね」
力が強い。ここでは封印どころか、どんな影響が出るかわからない。
「朱璃、大丈夫!?」
「へいっき!」
羽海も部屋に入り、咲たちの無反応に目を見開く。
「ごめん、あとよろしく!」
私の言葉に羽海が頷く。
跳躍と同時に右拳を振り上げ、浮かぶ〝髪飾り〟を撃ち抜いた。
――ガシャアン
髪飾りは弾き飛ばされ、ベランダの窓を突き破る。
その瞬間、咲と母親の体が同時にふらりと揺れ、意識を失った。
私は二人を横目に、割れたガラスの向こうへ飛び出す。
「あのバカ……! ここ、四階よ……!」
羽海の声が背中越しに響いた。

