四章~心唱~
「朱璃っ!」
羽海の声に振り返る。
さっきまで羽海が相対していた楽譜は、まだ封印も浄化もされていない。
にも関わらず、羽海の手元にあった。
「羽海っ!?」
「もう大丈夫」
その一言に、私は何かが違うと気づく。
抑えていた陌霊を弾き飛ばし、その勢いのまま羽海の横に着地した。
「朱璃、陌霊の浄化、試してみていいかな」
「え?」
「たぶん……出来ると思う」
そういう羽海の瞳には自信と、少し不安が滲んでいるように見えた。
「わかった」
私は陌霊の方に向き直る。
御札はもうなかったが、祝詞だけでも多少動きを抑えることは出来るだろう。
簡易封印で動きを止める。
羽海は胸の前で両手を合わせ、瞼を閉じた。
すると薄い青の光が髪先から立ち上り、空気が柔らかく波打つ。
その波に導かれるように、小さな精霊の光が彼女の周りに集まってきた。
羽海がそっと口を開く。
清らかな旋律が広がり、陌霊の黒い靄をかすかに削りとっていく。
透明で、儚そうで、それでも確かに真っ直ぐな音。
その音に陌霊が抑えきれないほどの強い力で反応した。
大きく甲羅を開け、牙のような鍵盤をむき出しにして飛びかかる。
「羽海ッ!」
私は咄嗟に肩を抱き寄せ、羽海ごと床を転がった。
すぐ背後で爪牙が床板を砕き、破片が頬をかすめる。
転がった勢いのまま、羽海を庇うように覆いかぶさる。
息が荒く、羽海の肩が小さく震えているのが腕越しに伝わった。
「大丈夫、大丈夫だから……」
羽海は唇を噛みしめ、立ち上がった。
視界の端で、影が大きく広がっていく。
顔を上げたときには、陌霊が目前に迫っていた。
それを見据える羽海の瞳は諦めない強い意志がこもっていた。
――もう少しなんだね。
私は羽海の横に立ち、彼女の手を握る。
一瞬、目が合い、互いに頷く。
そして改めて陌霊に向き直る。
羽海が息を吸い、音を奏でるように唄い始める。
――次の瞬間、陌霊の記憶が流れ込んできた。
―――
――柔らかな照明の下、磨き上げられたグランドピアノ。
ホールに響くざわめきと拍手。
指が鍵盤を優しく押し、澄んだ音が響き渡る。
観客の笑顔が、その音を祝福していた。
場面が暗転する。
無人の教室。
埃の匂い漂う倉庫の隅。
誰も弾かないまま、時間だけが積もっていく。
木目は乾き、弦は緩み、音は閉ざされた。
(そっか……この子、私と同じなんだ)
幼い日の記憶が重なる。
母のうたは、いつも家の中心にあった。
その隣で、うたっていた自分。
とても幸せで、満たされていた時間。
けれど、ある日を境に、その時は止まった。
才能がないと告げられ、うたう意味を失った――。
うたえない日々。
だからこの子が……。
―――
羽海は目を閉じ、呼吸を整えた。
一拍、二拍、三拍。
倉庫の中でひとり寒さに耐えるピアノの姿。
母の背中に寄り添い、同じ旋律を覚えようとする幼い自分。
(――まだ怖いよ。でも――)
羽海は目を開けた。
光が瞳に宿る。
手を握り返す。
その視線はずっと遠く、けれど確かに〝ここ〟にある場所へ向けている。
「……お願い。あなたの音を、聴かせて」

