第21話 / DIGGIN’THE SOUL

 彼女は陌霊に語りかけたのではなかった。
 かつてグランドピアノだった付喪神に向けて、ささやいていた。
 楽譜とともにあったグランドピアノ。
 蝶番ちょうつがいが音を立ててふたが開き、中の弦が震え、音が響く。
 羽海の身体から、薄い青の光が立ち上がる。
 髪がふわりと揺れ、彼女の周りに複数の光点こうてんが生まれては消えた。
 音になりきれなかった祈りの粒。
 それらが一度、胸の前でひとつに結ばれて――開いた。

 ~~~♪
 ~~~♪

 羽海の唄は完璧ではなかった。
 それでも一緒に歌いたいという気持ちが伝わってくる。
 しゃがれ、頼りなく、風に消えそうな細い声。
 凍りついていた壁がほぐれ、冷え切った空間に、音が拡がっていく。
 その歌声はやがて波紋のように伝わり、私の胸の奥にも静かに染み込んできていた。

「……綺麗」

 旋律が緩やかに紡がれ、細い糸のような音の柱が天井へ伸びていく。
 陌霊が反応する。
 弦が一斉に強張り、異形の喉の奥から不協和音の塊が押し出される。
 しかし、羽海は怯まない。
 彼女の声が、その不協和音の合間を縫って進む。
 歌声が不協和音の源を探り、共鳴して音を紡いでいく。
 複雑に絡みあった糸を、優しく解きほぐすように。
 それは、共に歌いたいという、想いの唄だった。
 黒い靄が薄くなっていき、異形の中心線に一本の金色の光が差した。
 かつて教室で浴びた眼差し。
 それは自分が自分であった証。
 ピアノだった頃の、共に歌っていた頃のこと。

「朱璃」

 唄い終えた彼女が私を呼んだ。

「……あとはお願い」

 羽海が目で伝える。
 私はわずかに笑い、視線で応えた。

 瞳を閉じる。
 羽海の唄が響くたびに、空気が澄んでいくのを感じていた。
 清らかな力が、この場に満ち溢れていく。
 長く絡み合い、歪んでしまった強い想いを断ち切る力。
 今ならきっと……いや、今しかできない。
 私は深呼吸して、人差し指と中指を立てて、体の前に構える。
 指先に光が宿り、あわく揺らめく。

 瑠璃光浄火夜叉二王るりこうじょうかしゃにおう
 金色こんじき宝剣ほうけん万象ばんしょうしず
 き、じゃくだき、けがれをめっ
 東方とうほうその 清浄しょうじょうたるあめ天雲あまつくも
 しるし万雷ばんらいいのりとともみちらさん

 祝詞を唱えた瞬間、目の前に紋様もんよう顕現けんげんした。
 そして背後には巨大な剣の幻影が浮かび上がる。

 金剛一閃こんごういっせん
 ――伐折羅ばさらッ!

 二本指を縦に一閃、前方の紋様を切り裂く。
 その斬撃と共に陌霊を両断した。

 陌霊が吠える。
 弦がいっせいに鳴り響く。
 音が嵐のように残響する。
 切断面から浄火があふれ、金色の光粒となって昇華していく。

 羽海が再び歌声を奏でる。
 私は最後の祝詞を唱えた。

 けまくもカシコ九頭竜クズリュウ大神タイシン
 言霊コトダマカミ
 マヨいし九十九ツクモ山霊サンレイ
 こしタマトドタマへと
 かしこみかしこみ ネガモウ

 祝詞から封印の光が放たれる。
 羽海の歌声がそれを包む。
 光は〝音〟になって、異形の全身を包み、静かに爆ぜた。

 衝撃はなかった。
 炎も、断末魔もない。
 ただ、柔らかな余韻だけが室内に広がった。
 明るい教室で拍手と笑顔に包まれて響く、澄んだピアノの音。
 陌霊の体はキリのように消え、埃をかぶった黒いグランドピアノが残った。
 長い眠りから目を覚ました、ひとつの楽器だった。
 羽海が傍らのピアノの上にそっと楽譜を置く。
 そして、膝から崩れ落ちた。
 私は慌てて支える。

「……良かった」
「うん。ピアノも楽譜も、もう大丈夫そう」

額の汗を拭うと、彼女は息を整えながら微笑んだ。

「ねぇ、朱璃」
「なに?」
「私、今も歌が好き」

私は小さく頷き、彼女の肩に軽く触れ、タハハ、と笑う。

「うん、知ってたよ」

ニコリと笑顔を浮かべる羽海のその瞳の奥には、明るい光が灯っていた。

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この記事を書いた人

長野県松本市を拠点に活動する2人組の作家です。

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